触媒固定化設計チーム

第10回 ケイ素化学チーム 八木橋不二夫
特定集中研究専門員(信越化学工業(株)開発調査部主席研究員)

『シリコーンの基本的な立体分子構造を解明する』

 【大学院で天然物有機化学を学び、ジャガイモ疫病で生じる化合物を研究】

八木橋さんは信越化学工業株式会社の主席研究員で、現在は産総研に出向し特定集中研究専門員としてケイ素プロジェクトに参加しています。今回は、企業での経験を含め幅広くお話を伺いたいと思います。最初に、化学に興味を持ったきっかけから教えてください。

小学生のときに岩石が大好きな友人がいて、一緒に浜辺に行って鉱石を拾ってきては、図鑑で調べたりサンプルを整理したりして遊んでいました。その成果を研究発表したこともあります。中学生の頃は、学校では先生から実験の準備を任されて勝手に理科室に出入りしていました。そのころから化学には興味があったのかもしれません。今では許されないことですが、大らかでいい時代でしたね。

コラム1

大学時代はどのような研究をしたのですか?

大学は、地元の北海道大学に進学し、4年から有機化学の研究室に入りました。改コラム2最初は光反応プロセスを研究していましたが、修士2年から天然物有機化学の分野に進み、ジャガイモ疫病の抗菌性物質の研究を手掛けました。ジャガイモは疫病にかかると、疫病菌が侵入してくるのを防ぐため特殊な化合物(ファイトアレキシン)を作ります。その主要な成分のRishitinとかは研究室の歴代の先輩方がすでに見つけていましたので、私はマイナーな成分について調べました。その結果、ジャガイモの中でこのような化合物がどのようにしてできていくかについて大分わかるようになりました。このテーマで名古屋大学と共同研究もやっています。博士論文のテーマになっています。

北海道はジャガイモの一大生産地ですが、その研究は実際の農業に役立てられたのですか?

いいえ、直接には役立っていません。ただ、研究は北海道農業試験場の協力のもとにやっていて、研究用に栽培していた「リシリ」という特別な品種で研究しました。病害に強いジャガイモを作るのにかけ合わせのための品種として用いられていて、病害抵抗性のない男爵とかのおいしい品種の改良に役立っていると思います。ただ私の本当の興味は、このような化合物の構造とか、さらには植物がどのようにして病害を克服してきたかという、進化の過程がこのような研究には含まれていて、そのあたりにあったように思います。

 

【信越化学工業の自由な研究環境のもと、光レジスト開発で大きな成果】

 卒業後は、企業の研究者として就職したのですね?

信越化学工業では創業の地である新潟県の直江津工場に配属されました。直江津工場の主な業務は、セルロース誘導体や合成石英の生産、塩素化によるクロロシラン類の製造などです。私自身は有機ケイ素化合物の開発を主にやっていました。シリコーンの製造プロセスを簡単にいうと、金属ケイ素と塩化メチルを反応させてジメチルジクロロシラン((CH3)2Cl2Si)を合成し、それを加水分解して重合させるとシリコーンができ、それをもとにオイルやゴム、レジンなどさまざまなシリコーン製品が作られます。 塩素にはさらに重要な用途があって、塩化ビニル樹脂の原料となります。弊社はアメリカに塩化ビニルの大型生産拠点を置いており、世界トップメーカーです。

シリコーンでも有名で、まさに世界的な機能性化学メーカーですね。

有機のシリコーンだけでなく、無機の半導体シリコンも手掛けておりこの分野では世界のトップシェアです。
有機と無機のケイ素化合物両方で事業を展開しているところが強みでしょう。有機シリコーンのシェアは国内トップシェアと聞いています。

改1。八木橋さん写真 after

信越化学工業の研究環境は、どのような特徴がありますか?

研究開発には積極的に投資する会社です。研究者は自発的に自分のテーマを追求したり、あちこち飛び回ったり、ちょっと他では考えられないくらい自由ですね(笑)。

そういう自由な環境のもと、八木橋さんはどのような研究をしてきたのですか?

まず、直江津工場ではシリコーンを使った農薬の開発をしました。米国デュポン社に評価していただきましたが、最終的には製品化には至りませんでした。農薬というのは絶対に毒性があっては許されず、ある意味医薬よりもハードルが高いところがあります。1万〜数万種類もの化合物を作り、1つの農薬ができるかできないかという世界です。

その後、川崎に新設された研究所に移り、半導体用の光レジストを開発に参加しました。半導体デバイスは、リソグラフィという技術を使って基盤上に非常に微細な配線パターンを形成します。まず、合成石英のフォトマスクでパターンの原版をつくり、縮小露光してレジストを塗った基板に転写し、光が当たったところだけを融かしだす現像というプロセスで微細なパターンを形成するものです。このような材料が光レジストと言われるものですが、このようなリソグラフィ関連の材料は、今では弊社の大きなビジネスのひとつに成長しています。
  また、さらに微細な配線パターンを形成できるよう、光レジストの下に塗る材料(下地)の開発にも関わりました。

改.コラム4

【化学材料に強い日本を支える、化学系の研究者と材料メーカー】

半導体材料の研究で、一番苦労する点は何ですか?

例えば、レジスト膜に金属などのゴミが1つでも入ると断線や漏電が起きてしまい、半導体デバイスとして深刻な問題が生じます。ですから、金属の混入が10ppb(ppb=10億分の1)というような、非常に高いハードルを取引先から要求されます。昔から、半導体工場はラインが1つ止まったら責任者の首が飛ぶと言われる世界。こうした厳しい要求に応えている日本の材料メーカーは、どこも素晴らしいと思います。

なぜ、日本でそれほど優れた材料を作れるのでしょう?

化学材料をこれほど本格的に研究開発している国は日本だけです。日本ほど有機化学者や合成化学者がたくさんいて、化学材料の研究者が多い国は、世界的に見ても他にないように思います。そうした背景があるので、日本は化学材料に強いのではないでしょうか。

他にも、日本と海外で研究者の環境や背景の違いを感じることはありますか?

私は、光レジストの研究で米国IBM社にエンジニアとして2年間赴任した経験があります。そこで強く印象に残ったのは、米国IBM社では管理職としてプロモートしていく以外に、研究だけを続けてステータスを上げていくという2つの選択があります。IBMでは、研究の関係で、化学増幅型レジストという画期的な業績を上げたことでこの分野で非常に有名な伊藤洋博士とお付き合いさせていただく機会があったのですが、彼の場合は自分より若いマネージャーのもとで一研究者として働いていたのですが、社内的にもきちんと認められていて、最終的に米国IBM社のフェローになりました。物理系のフェローが大多数を占めるなか化学系でフェローになったのは2人目だと聞きましたが、きちんと評価されている点はさすがと思いました。

改・コラム5       八木橋さん図1

【プロジェクトでの研究テーマは、シリコーンの3次元的な分子構造の解明】

八木橋さんが、平成24年度にスタートした経済産業省のプロジェクト「有機ケイ素機能性化学品製造プロセス技術開発」に参加した経緯を教えてください。

弊社の人事から声がかかり、このプロジェクトが始まることを知りました。ちょうど自分のやりたい研究テーマに合った分野なので、経済産業省でのプロジェクト立ち上げ会議から参加しました。

プロジェクトでの具体的な研究内容を教えてください。

実はシリコーンについては、ごく基本的な分子構造がよく分かっていません。そもそもシリコーンの主骨格は、ケイ素(Si)と酸素(O)が交互につながって伸びていきます(-Si-O-)。原料に用いるシランの反応性の置換基(一般には塩素原子やアルコキシ基のようなもの)が一個か二個以下の時には分子は二次元的にしか成長できないのですが、三個または四個の時は、三次元的に分子が成長します。この場合その成長の仕方によって多種多様な分子構造をとることができます。このようにしてできる、原子の構成が同じで空間的な配置が異なるものを立体異性体といいます。このようなわけでケイ素化合物には多数の異性体がありうるのですが、構成原子数が増えると異性体の数は膨大になってしまいそのために解析が非常に難しいということになるのです。

私の研究テーマは、この3次元的なシリコーンの分子構造をきちんと調べて明らかにすることです。そこで、分子が小さい3量体、4量体という段階で、クロマトグラフィーとか最新の分析手法を使って、立体異性体を純粋に取り出したり、機器分析を行って構造や性質を解明するということをやっています。その結果今まで一般的に言われてきたことが必ずしも正しくないというようなことが分かってきています。基礎の基礎の研究ではありますが、この分野の研究が今後進んでいくきっかけになればいいと期待しています。実は大学院でジャガイモ疫病の研究をしたときも基本的には同様の考えでやっていましたので、懐かしいような気分で研究しています。また、まだ自分の技術は錆び付いていないと確認できました(笑)。

【工業的に重要な置換基を分析し、シリコーン産業の飛躍的な発展の土台に】

これまで、分子構造が分からないのにシリコーン製品が作られてきたのですか?

そうです。不思議なことに、シリコーンは基本的なところが解明されないまま、応用だけがどんどん広がってきました。途中のプロセスが分からなくても、狙った性質のものさえできれば良しとされてきたからです。

シリコーンの分子構造が分かると、どのようなメリットがありますか?

応用の面では、狙い通りの材料を設計して作れるようになります。原理原則の裏付けがきちんとあれば、応用も飛躍的に発展する可能性があるでしょう。
  学術的な面では、この研究成果を利用し、もっと大きな分子構造まで明らかにできる新しい方法が見つかるかもしれません。ともかく最初の一歩を踏み出せば、何か進展があるのではないかと期待していますし、次の段階に挑戦する人が出てくるだろうと思っています。

この研究を今後どのような方向に進めていくのですか?

シリコーンの3量体と4量体について、主骨格に結びつく置換基の分析を進めます。比較的分かりやすい置換基についてはすでに終了し、今は工業的に重要なメチル基について調べ始めたところです。ここが明らかになると、今までと性質の違う化学材料を自在に作れるようになります。そうした応用面も考えながら研究を進めていきます。

かなり上流に位置する研究のため、ライバル企業も含め多くの企業が恩恵を受けることになりそうです。その点をどう考えていますか?

プロジェクト立ち上げの会議のとき提案したのは、企業の研究者が出した成果については、その企業が例えば3か月なり6か月なり優先権をもって応用を始め、他の企業は遅れて始めるようにするという方法です。こういう形であれば、技術が死蔵されずにすみます。

例えば、日本人の作ったものが日本で評価されず、海外で評価されたことでビジネスが発展したケースは多々あります。また企業の場合、「自社が成功するメリットより、ライバル会社が成功するデメリットの方が大きい」という考え方で、戦略的に技術を死蔵させてしまうこともある。このプロジェクトでは、そうしたことが起こらないようにしたいと考えています。

 

【生涯現役。自分の好きな研究を、やれるところまで進めたい】

触媒化学融合研究センターの研究環境の印象は?

私は会社でケイ素を扱ってきましたが、触媒のことはほとんど知りません。全然違う分野なので、若い皆さんに教えられることが多く、とても勉強になります。私にとって本当に新鮮な環境です。
現在の研究テーマは私1人で担当していますが、せっかく自分が楽しみで始めた研究ですし、生涯現役を目指していますので、実験を1人でやるのは全然苦になりません。

八木橋さんの年齢を尋ねてもいいですか?

64歳です。私もこの年まで研究をしているとは思わなかったのですが、管理よりは研究をしている方が楽しいですね(笑)。

長い研究者人生の中で、困難や挫折をどうやって乗り越えてきたのですか?

ちゃんと乗り越えられたかはあまり自信がありませんが、とにかく継続する事しかないように思います。今回の研究も、途中であきらめそうになったことが何回かありますが、好きでやっていることなので、もうちょっと頑張ろうと思って続けているうちにうまくいきました。

また、研究が行き詰まったときは「どこまで確実に分かっていて、どこから先が分かっていないのか」を全部整理して書き出してから考えると、問題点が見えてきます。私自身、その方法で解決できたことが幾度もあります。八木橋さん図2

もう1つ、研究は成功するかしないかよりも、本人がどれだけ興味を持って続けられるかが一番大切です。会社でも、最初は社内で誰からも評価されなかった研究が、後に非常に大切な技術となり、大きなビジネスに結びついたという例も見てきました。自分を曲げない頑固さも時には必要と思います。

最後に、今後の抱負を聞かせてください。

改。コラム6今回のプロジェクトに出会えたことは、私の化学者人生にとって非常に幸運なことだと思っています。今の研究をどこまで進められるか、自分が納得できるまで、自分のやれるところまで、一歩一歩やっていくつもりです。

                                               

 

 

 

(聞き手・文=太田恵子)