触媒固定化設計チーム

第24回 官能基変換チーム 根本耕司研究員

『社会に役立つ触媒の追究と、一科学者としての被災者支援活動』

【人の役に立つ道を模索し、途上国支援を志したのち研究に専念】

どのような少年時代を過ごし、いつ頃から科学に興味を持ちましたか?

根本.1 出身は福島県・南相馬市で、小学生の頃から理科が好きでした。長男としての責任を自覚させられながら育つうちに、「人の役に立つ職業に就きたい」という気持ちが芽生えました。病気がちな祖父母のために医者になりたいと考えていた時期もありましたね。

のちに研究者の道へ進むきっかけとなったのは、高校の化学クラブの活動です。研究(のまねごと)がとても面白く感じられました。当時は地球温暖化や環境ホルモンが騒がれていた頃で、社会問題を意識した研究に取り組んでいました。特に500mlサイズのペットボトルが売り出され始めて、ゴミ問題やリサイクル問題が取り沙汰されていたことから、ペットボトルの分解実験(ポリエチレンテレフタラートの加水分解実験)に取り組んでいました。ほかにも環境やエネルギーを意識した実験をすることが多く、カニの甲羅を活用した生分解性プラスチックを作ったりもしました。結果的に現在の研究テーマにつながっているような気がします。

どのような大学時代を過ごしましたか?

東北大学工学部に進みましたが、4年間ろくに勉強をした記憶がありません(苦笑)。大学受験のために勉強漬けだったもので、「外へ飛び出してみたい」という思いに駆られ、アルバイトでお金を貯めては長期休業に海外へ行くことを繰り返していたからです。主に東南アジアの発展途上国に行くことが多く、フィリピン、インドネシア、タイなどに行きました。途上国では教科書や新聞・テレビ等でしか知らなかった現実を目の当りにし、自分に貢献できることはないかと考えさせられました。4年生の時は思い切って休学してインドへ行き、現地のNPO団体のスタッフとして働きました。主に衛生指導(手洗い・うがいの指導)や農業支援(井戸掘り、開墾作業)、基礎レベルの教育普及活動(読み書き)などを手伝っていました。

研究に意識を向けるようになったきっかけは?

大学を休学していましたが、所属していた研究室の服部徹太郎先生にだけは定期的に生存確認の連絡をしていました。そのとき先生が、「いいかげん日本へ帰って来い。むやみに海外渡航を繰り返して何かを成し遂げた気になっているのは若気の至りだ。今のお前に本当に必要なのは、大学できちんと勉強することだ」と何度となくおっしゃってくださいました。こんなに心配してくださる先生は他にいません。先生の熱意のおかげで復学を決めましたが、もし服部先生と出会っていなければ、私は多分今でも海外を放浪していたと思います。

復学後の学生生活は?

服部研究室に復帰後は、よそ見をせず研究に専念しようと決めました。卒業研究のテーマは、二酸化炭素を原料にしてプラスチックや医薬品を製造できる化学反応の研究です。そういう研究を通して、広い意味で社会の役に立つことができると教えてくださったのも服部先生です。大学卒業後も研究を続けたい、服部先生の下で研究がしたいと思い、大学院へ進学することを決めました。

大学院で取り組んだ研究テーマは?

実は大学4年間勉強をさぼっていたせいで大学院の入試に落ちてしまって、第一希望の服部研究室に配属されませんでした。そこで修士課程は、服部先生の紹介で、彼谷邦光教授の研究室に所属することになりました。

たとえば、大量発生した藻類(アオコなど)が毒を作り、それを食べた貝や魚が食中毒の原因になることがあります。そこで、環境から発生する毒によって食べ物が汚染されていないか迅速に調べるため、微量の毒性物質を検出する方法について研究していました。研究を進めるうちに、つくばにある国立環境研究所に出入りするようにもなりました。環境研では毒性物質の検出法だけでなく、合成や構造解析なども学ぶことになり、4年間の遅れを取り戻すべく猛勉強しました。

彼谷研究室や環境研での研究も楽しかったのですが、博士課程では再び服部研究室に転属し、二酸化炭素の研究を再開することにしました。二酸化炭素は地球温暖化の原因物質と言われていますが、悪者とされる物質を役立つ物質に変えられれば効果は絶大であり、非常に魅力的な研究テーマです。

最初はベンゼンやトルエンなどの芳香族炭化水素化合物と二酸化炭素を反応させていましたが、なかなか結果が出ず苦しみました。反応性の向上を期待して、窒素(N)が1つ含まれる含窒素芳香族化合物を二酸化炭素と反応させると、高収率で反応が進行するということが分かりました。最終的には、含硫黄系の化合物まで二酸化炭素と反応させられることが分かり、博士論文を完成させることができました。また、この研究テーマで日本学術振興会の等別研究員に採用され、卒業後も服部研究室で研究を続けられるようになりました。

CO2の研究

恩師である服部先生の人柄や指導方針は?

服部先生は、自分がやると決めたら信念を持ってその研究をやり続け、結果が出なくても安易に道を変えることはありません。人の真似をしたり似たような研究をしたりするとものすごく怒ります。私が研究のやり方にこだわらず手を替え品を替え実験していた時も、「なんのために研究をしているのだ。やり方にこだわって、その壁を乗り越えることに意味がある」と随分叱られました。今でも研究に行き詰った時には先生の言葉を思い出します。

【2011年3月11日、東北大学大学院(仙台)で遭遇した東日本大震災】

東日本大震災が発生した時の状況は?

特別研究員の任期終了を目前に控え、研究室でデータ整理や引っ越しの準備をしていた時に被災しました。余震が続く中、散乱した物をかきわけて実験室に行き、有機溶媒や試薬類への引火を防ぐため加熱中の装置を止め、廃液タンクの蓋を閉めました。地震発生時にとるべき行動は日頃から訓練されていたため、二次被害を出さずに避難することができました。

被災地でどのような経験をしましたか?

根本.2キャンパスが山の中にあったため、周りの状況が一切つかめませんでした。公共交通機関は既にマヒしていたため、舗装が壊れた山道をみんなでおそるおそる歩いて下山しました。市街地に着くと、停電のため街は真っ暗で、人の姿はなく、建物が壊れ、道路はひび割れている。コンビニには商品がなく内側から目張りされており、まるでゴーストタウンになったような街の様子を見てゾッとしたのを覚えています。

ようやくワンセグの電波が入り、そこで初めて津波の被害を知りました。みんなと相談して学生同士でなるべく行動を共にすることとし、私のアパートに研究室の学生を泊め、そこと避難所を往復しながら生活が元に戻るのを待ちました。凍えるほどの寒さの中で、余震に怯えながら、肩を寄せ合って過ごしたことは一生忘れないと思います。

やがて電気が復旧し、テレビをつけたら福島第一原発が水蒸気爆発を起こした映像が流れていました。「いつか大きな地震がきて原発が爆発したら大変なことになる」と福島県民なら誰でも分かっています。いよいよそうなりかねない時が来てしまったと震撼しました。この頃ようやく家族と連絡が取れるようになったのですが、実家の両親達は震災後すぐに避難したと聞いて安心しました。

その後、就職した頃の様子は?

仙台では徐々に交通インフラの復旧が進み、3月末には夜行バスの運行も再開しつつありました。4月から理化学研究所への就職が決まっていたのですが、引っ越しもままならなかったため、着の身着のままで上京し、ぎりぎりで理研の入所式に間に合いました。関東では節電や計画停電があるとは聞いていましたが、ほぼ震災前と変わらない様子に、違和感というか、もやもやした気持ちになったことを覚えています。

理研では、大学よりはるかに研究レベルも研究インフラも充実した環境のもとで、二酸化炭素の触媒的変換反応の開発をテーマとした研究を新たに始めました。しかし、震災直後であったため、落ち着いて研究ができる状況ではありませんでした。日本全体が復興へと向かう中、基礎・基盤研究に専念していてよいのかという議論もあり、理研を含む国研全体の先行きが不透明な状況にありました。私自身も心のどこかで「これで良いのだろうか」という思いを常に抱えていました。

【産総研に入所し、バイオマス関連の国家プロジェクトで実用化に挑む】

産総研に入所した経緯は?

その様な中、2012年に産総研で再生可能資源を原料とした有用化学品開発に関する公募が行われると聞きました。二酸化炭素も考え方によっては再生可能な資源の一つと言えます。そこで、現在の上司である富永研究チーム長とコンタクトを取り、産総研を見学させてもらう機会を得ました。そのとき、富永研究チーム長が私とは違うアプローチで二酸化炭素の研究を続けられていることを知り、非常に興味を引かれました。また「技術を社会へ」をスローガンに掲げる産総研なら、社会に近いところで、本当に社会に役立つ研究ができるのではないかと思い、公募に応募してみようと思いました。幸いにも選考に勝ち進むことができ、2013年の4月に産総研に入所しました。

入所後、どのような研究テーマに取り組みましたか?

バイオマス(リグノセルロース)から人の役に立つ化学品を作るという壮大な研究(『非可食性植物由来化学品製造プロセス技術開発』NEDOプロジェクト)に参加し、現在もその研究を続けています。

バイオマスの変換反応は、触媒が肝となります。バイオマスをいかに効率よく分解し、いかに効率よく目的のものに変換するか、これまでの知識や経験を総動員して新しい触媒開発にチャレンジしました。

触媒の研究

ターゲットはレブリン酸という化合物で、バイオマスからプラスチック製品や医・農・薬品を合成する際の中間物質として非常に有用なものです。すでに、製紙原料の木材チップ、粗製パルプ、サトウキビの搾りかすなど、どのような形のバイオマスでも私たちの触媒を使えば高収率でレブリン酸に変換できるところまで到達しています。現在、共同で研究を行っている企業が、プラント設計の前段階となる小規模な反応設備の製造を検討している段階で、今後はその設備を用いて開発した触媒の実用性の評価を行う予定です。

バイオマスの研究

バイオマスからプラスチックや医薬品を作るというのは、これまでは夢物語だったかも知れませんが、いよいよ実現が遠くに見えてきました。

国家プロジェクトに参加し、量産化に向けた企業との共同研究を通して感じたことは?

私たちの研究成果を、目の前の社会問題や環境問題を解決する技術として社会に還元するためには、乗り越えるべきハードルや解決すべき課題がいくつもあります。

たとえば、環境や人体に害となる物質は使えませんし、触媒調整のコストや製造プロセス全体のコストを抑えること、それから廃棄物を出さないことも重要です。企業の方々からリアルなご意見を伺わないと分からないことが多々あり、それらを一つひとつクリアしていかなければなりません。

研究成果を社会に役立つ形にする難しさに直面しつつ、この上ない面白さとやりがいを感じています。

【ニッケル化合物を用いた簡便なシアノ化反応の開発に成功】

他にはどのような研究を手掛けていますか?

バイオマスとは全然関係のない研究もしています。それは、ニッケル化合物を用いた簡便なシアノ化反応の開発です。この研究は、以前に共同研究をしていたある企業の方から頂いた意見がきっかけで始まったものです。これまでシアノ化反応は、猛毒のシアン化カリウムなどを使わなければできませんでした。危険なシアン化物を使わず、しかもなるべく安価で簡便な方法でできるようにしたいという要望がありました。これまでシアノ化反応を行ったことがありませんでしたが、試行錯誤を重ね、アセトンシアノヒドリンという比較的安全な試薬をシアン化物の代替として利用できること、安価なニッケル化合物を原料とした触媒が極めて高い活性を有することを見出し、環境調和型のシアノ化反応として論文にまとめて発表しました。

シアノ化の研究

今後どのような展開が期待されますか?

私たちの開発したシアノ化反応を応用すると、プラスチックや医薬品の原料となるニトリル化合物を簡単に製造できるようになります。また、猛毒のシアン化カリウムを使わない簡単な方法があるとなれば、新規の企業参入が期待できますし、そこにビジネスチャンスが生まれれば、技術が社会に還元されるチャンスが広がります。

実際にこの技術を使って新規のニトリル化合物を用いてプラスチック製品を試作するため、とあるニトリル化合物を数百グラム合成して欲しいという依頼を受けました。自分の技術がすぐに求められ、大量のサンプルを合成・提供したのは初めての経験でしたが、とても達成感がありました。

異なる研究テーマを並行して進めるのは大変ですか?

根本.4触媒化学融合研究センターの人材育成方針として、2つ以上の研究テーマを持つことが推奨されています。それにより研究マネジメント能力が身につきますし、研究間の相互作用で全然違う方向からアイディアがひらめくこともあるので、とても良いシステムだと受け止めています。

現時点で私は3つの研究テーマを持っています。こちらは企業との共同研究による新素材の開発です。あれもこれもと目まぐるしいのですが、本当に充実しています。

 

  •  今後挑戦したいことは?

 

研究者人生の柱となるようなテーマを見つけようと模索しているところです。まだ手探りの段階ですが、いろいろな人を巻き込みながら少しずつ形が見え始めてきたところで、自分自身もワクワクしています。

研究成果を、ゆくゆくは学生時代に訪れた途上国に役立てたいという思いはありますか?

いつか遠い将来、世界の役に立つ、あるいは世界を変えるような技術に繋がればと思っています。

 

【被災者支援事業として、福島県の母校で化学実験の出前授業】

被災地で化学実験の出前授業を始めたきっかけは?

根本.5jpg東日本大震災後、一研究者として、また一福島県民として、地元の復興に役立ちたいという気持ちが常にありました。佐藤センター長、浅川副センター長にお話ししたところ、日本化学会の東日本大震災被災地支援事業を紹介してくださいました。

そして日本化学会の協力を得て、母校の福島県立原町高校(南相馬市)で出前授業をすることが決まりました。日本化学会の方が、私のような一会員の声に耳を傾けてくださったことを非常にありがたく思っています。

 

出前授業の実験テーマは?

私自身が高校時代に化学クラブでやったのと同じ、ペットボトルの分解実験です。1回目を2014年7月25日、2回目を同年12月26日に実施しました。

1回目は1種類のペットボトルを使いましたが、2回目は色や形状の異なる様々なペットボトルを使い、どれを使ったら一番実験がうまくいくかみんなに考えてもらいました。そこで1人の生徒から、「全部混ぜたらどうなりますか?」という質問が飛び出しました。「そのひらめきこそが、研究者にとって一番大事なことです」と伝え、急きょ全部混ぜた実験も行いました。みんなでワクワクしながら反応の様子を観察したのはとても良い思い出になりました。

また実験の待ち時間には、高校時代から現在までの自分自身の歩みを振り返り、ちょっとした講演のようなこともさせてもらいました。研究者の仕事というと、髪やひげがぼさぼさで白衣が汚くて…というようなイメージがあるかもしれませんが、実際はそんなことはありません(笑)。できるだけ理系の職業を身近に感じてもらえるよう、再生可能エネルギーやバイオマス、私たちの生活を支える触媒の話などもしました。

和光純薬工業が、出前授業のために実験キットを提供してくれたそうですね?

そうです。3回目の出前授業は2016年5月6日、和光純薬工業の『鈴木—宮浦クロスカップリング反応体験キット2』を使って行いました。これは、2010年にノーベル化学賞を受賞された鈴木章先生の研究成果を体験できるキットです。反応溶液の色の変化など見た目のインパクトもあることから、楽しみながら実験をすることができます。

触媒は目立たない存在ですが、生活に欠かせない医薬品やプラスチックなどを製造するうえで非常に役に立っていることを、この実験を通して高校生に伝えたいと考えました。教材としての購入を申し出たところ、和光純薬工業が実験キットを提供してくださっただけでなく、お2人の社員が現地に来てお手伝いまでしてくださいました。

2016年8月5日には、たくさんの高校生が産総研を訪問していますね。

根本6原町高校と相馬高校(相馬市)の生徒を産総研に招き、研究室の見学会、講演会、懇談会などを実施しました。

佐藤センター長をはじめ多くの所員の協力を得、「またチャンスがあればこういう活動を続けていきたい」と言っていただけたので、今後も所員を(半強制的に)巻き込んでいきたいと思っています。

 

とても良い方向に活動が展開していますね。

ありがたい限りです。本当に周りの方々に助けられてこういう活動ができていると実感しています。

毎回、どのような思いで高校生と接していますか?

なにより「研究って面白い」と思ってもらうのが一番です。さらに、「研究者になってみたい」というような気持ちが芽生えるきっかけになればうれしいですね。震災によって生まれた科学への恐れや不信感を、新しい技術で払拭してやるぞ!くらいの気概のある子が出てきてくれるといいですね。

被災者支援活動の今後の抱負は?

大事なのは、活動を継続していくことです。東日本大震災から5年の歳月が経ちましたが、被災地の復興はまだ道半ばです。そうしたなか、出前授業が生徒たちの良い刺激となることを願い、この支援活動をライフワークとして続けていきたいと思っています。

もう1つは、支援活動を広域化していくことです。熊本や鳥取などの災害に遭われた地域でも支援を待っている人がたくさんいると思います。そこでも私の経験やノウハウを活かすことができると思います。この活動を広く発信し続けていくため、たとえば出前授業で行った実験の手順を公開するなど、新しい活動の形を模索しているところです。

被災者支援活動を通して、改めて科学者の役割を考えましたか?

根本.7技術を開発するだけ、提供するだけでなく、それによって引き起こされた問題に対して責任を持つことが求められていると思います。また、震災で失われたものを超えて、科学の力で新しいものを生み出していかなければなりません。

研究室に閉じこもるばかりが科学者ではありません。科学者がアクティブに研究成果を社会に発信し、社会と繋がっていくこと、寄り添っていくことが重要だと思っています。

 

 

(聞き手・文=太田恵子)