触媒固定化設計チーム

第15回 クロスアポイントメントフェロー  北大クロスアポイント   西田まゆみ研究チーム長

『企業と大学での経験を活かし、産業と研究の架け橋を目指す』

【田舎を満喫し、素晴らしい恩師との出会いに恵まれた至福の学生時代】

今回は、クロスアポイントメントフェローとして着任した西田さんに、企業や大学での幅広い経験や、それを活かした新たな取り組みについて伺います。まず科学との出会いについて、いつ頃から理系に興味があったのですか?

1.西田・写真1子どもの頃から「どうしてこうなるのだろう?」と考えるのが楽しくて、小学生向けの科学読物『なぜだろうなぜかしら』シリーズを読んだり、図鑑を見たりするのが好きでした。

高校で理系コースを選んだのは、英語や社会があまり好きではなかったから。同様に、大学に進学する時も迷わず理系を選びました。薬局を営む両親の勧めで私大の薬学部も受験して合格したのですが、都会で生まれ育った私は田舎の大学へ行ってみたくて、筑波大学に進学することに決めました。

 

田舎でのキャンパスライフを満喫できましたか?

 筑波大学には薬学部がなかったので、農学部にあたる第二学群農林学類で農芸化学を学びました。生物実習では「メダカの呼吸量の実験をするので、裏の池でメダカを獲ってきなさい」とバケツを渡され、次の日には「イナゴの解剖をするので捕まえてきなさい」と言われる。当時、自転車で走っていて突然イナゴの大群に出くわし、とてもペダルをこぎ続けることができずイナゴの群れが通り過ぎるまで必死に耐えたこともありました。まるでパール・バッックの小説『大地』の世界ですね(笑)。私が入学した1976年頃は、それくらい自然が豊かでした。

今のつくばとは全然違いますね。

当時はまだ道路も全部舗装されておらず、両親が大学の寮を訪ねて来た時、「アメリカの西部開拓時代のような所で大丈夫なのか?」と心配されたこともあります。でも、そういう何もない所に集まった学生を気の毒に思ったのか、先生方がよく学生を家に招いて食事をご馳走してくださいました。

振り返ると、筑波大学の4年間は非常に貴重な経験をすることができ、私にとって至福の時でした。

大学時代の恩師や研究についての思い出は?

農学部は自分が求めていた方向と違うと感じ、大学2年生のとき理学部にあたる第一学群自然学類に移りました。研究が面白くなったのは、大学4年生で大饗茂教授の研究室に入り硫黄酸化物の実験をするようになってからです。

大饗先生は硫黄化学の研究で有名で、アメリカでも教鞭をとられていました。私たち学生に、「とにかく外国へ出て経験を積みなさい」と熱心におっしゃっていました。

卒業の時にいただいた言葉も忘れられません。「君たちもいずれは人の上に立つ。その時は部下を大切にしなさい。自分の手は2本でも、部下を大切にすれば手が4本になる。その部下がさらに下の人を大切にすれば手が何本にも増える。2本の手でできることは小さいが、手が増えれば増えた分だけ大きなことができる」

私は後に企業の研究所で約60人の部下を持つようになり、いつもその言葉を思い出していました。筑波大学で大饗先生と出会うことができ、本当に良かったと思っています。

【相模中研で抗生物質や含フッ素農薬の開発に従事。当時の人脈は一生の宝に】

大学卒業後の進路は?

私が大学を卒業した1979年は、第2次オイルショックのため大変な就職難で、とくに女子学生はほとんど求人がありませんでした。しかし帝京大学薬学部に運良く就職が決まり、池上四郎先生(当時教授)、柴崎正勝先生(当時准教授)のご指導のもと、助手として生理活性物質の合成に取り組みました。例えば、32工程が必要な化合物を最初から最後まで作り上げ、論文にして発表するなど、その後の研究者人生の土台となる経験を積むことができました。

薬学部で助手を務めた後、どのような方向に進んだのですか?

1984年に相模中央化学研究所(相模中研)に入所しました。そこは、複数の企業と日本興業銀行(当時)の協力で財団法人として設立された研究所です(現在は公益財団法人)。研究員はパーマネント(任期なしの終身雇用)ではなく、そこで良い仕事をして、数年後には大学や企業の研究所に巣立っていきます。非常に優秀なメンバーが集まっており、後に大学教授や企業の要職に就かれた方も多く、当時の人脈は私の宝となっています。

相模中研では、どのような研究をしましたか?

最初に、企業との共同研究で抗生物質の開発に取り組みました。かなり高い活性の化合物が見つかったものの、毒性をコントロールできず世に出すことは叶いませんでした。2.西田.写真2

次に取り組んだテーマは、含フッ素農薬の開発です。私が入所した時の近藤聖所長は、農薬の合成法で特許を取得された方で、そのロイヤリティ収入が年間約4億円も入り、研究資金は非常に潤沢でした。しかし他の企業が、ほぼ同じ合成ルートで最初の原料を少しだけ変えて優れた農薬を開発してしまった。それに対抗して、私たちもさらに良い合成ルートを探求しましたが、残念ながら見つけることができませんでした。

しかし私にとって、相模中研でフッ素を扱い、CHN(炭素・水素・窒素)とは異なる化学の経験を積めたことは、後々の仕事に大いに役立っています。

【北海道大学で博士の学位を取得し、新たに有機金属触媒の研究に携わる】

相模中研から北海道大学に移られた経緯は?

相模中研には4年間在籍しましたが、結婚を機に退職し、夫の赴任先である北海道へ行きました。夫が助手として所属した北海道大学薬学部の米光宰教授が、私にも学位を取るよう勧めてくださり、思いがけずお世話になることになりました。そして、それまでの研究とラジカル(不対電子を持つ化学種)の研究を合わせて博士(薬学)の学位を取得することができました。

北海道大学で、その後につながる多くのものを得たのですね?

教授が退官された後、筑波大学大饗研究室の先輩である森美和子先生が着任され、有機金属触媒の研究をすることになりました。森先生は非常に厳しく、学生には徹底的に自分の頭で考えることを教えます。化学実習中のディスカッションでは、泣き出したり怒り出したりする学生も珍しくありませんでしたが、そういう学生に限って卒業実習で有機化学の研究室を選んでいるのを見るのは面白くもありました。私自身、有機金属触媒の研究が後に企業に入ってから役立つことになるとは、その当時は考えてもいませんでした。

その後、再度夫の転勤を機に私も転職先を探し、広栄化学工業株式会社に入社しました。

【広栄化学工業で、有機金属触媒の新規事業立ち上げに成功】

広栄化学工業ではどのような研究をしたのですか?

入社したのは1999年で、景気が急速に悪化していた時期です。ついに2001年頃に赤字に転落してしまい、業績を回復させるため新規事業の立ち上げを迫られました。そこで、有機金属触媒の研究を活かし、メタロセン触媒というポリマーを作るための重合触媒の受託合成を提案しました。しかし、有機金属化合物は非常に危険な物質であり、会社でこれまで取り扱ったこともないため、簡単には採用してもらえませんでした。

その時、たまたま住友化学株式会社から来た上司(*)が「どうにかして技術力を高めなければ、今のままでは会社の未来がない」と強く説得し、新規事業がスタートすることになったのです。(*現:北海道大学触媒化学研究センターの隅田敏雄客員教授。北大クロスアポイント協力研究員)

有機金属触媒の新規事業は順調に進みましたか?

グリニャール試薬という合成の基幹原料を製造することとし、後発品のため何か特徴を打ち出そうと、無色で極めて純度の高い合成技術を開発しました。

会社の体制も変わり、新たに研究部門と開発部門が一緒になったセクションができました。注文を取るため、私も開発部門の社員と一緒にアメリカ、ヨーロッパ、アジアなど世界中を回り、「どういうニーズがあるのか」「何が重視されているのか」を吸収する機会を得ました。

それだけ国際競争力のある優れた製品だったのですね?

受託合成では中国やインドに価格競争で負けてしまうことも多いのですが、有機金属触媒に関してはまだ中国やインドで技術力が育っておらず、競争相手は多くありませんでした。加えて、有機金属触媒は簡単に変えることができないため、製品の寿命が長いのもこのビジネスの魅力でした。そういうわけで私たちの技術力とマーケットの需要がうまくかみ合い、新規事業で成果を上げ会社に貢献することができました。

【イオン液体の開発から研究マネジメントまで、幅広く活躍】

広栄化学工業で他にどのような仕事をしたのですか?

広栄化学工業では、アミンやピリジンなど窒素(N)を含む有機化合物を扱っていましたので、それを使って用途開発をしようと考え、イオン液体の事業を興しました。私たちが研究開発を始めた当時は、国内でイオン液体の研究はあまり進んでおらず、きちんと事業化している企業もありませんでした。3西田.写真

イオン液体というのは、塩ですが、100℃以下では溶液の状態の物質です。電気を通し、しかも物を溶かす能力が高い。例えば木(セルロース)を溶かすことができます。この2つの特性を最大限に発揮できるようデザインすれば、極めて広い分野で用途開発が行なえます。

このイオン液体事業は、常にアンテナを張って用途開発をし続けなければなりませんが、この新規事業を通して、それまでの化合物の製造技術を売るビジネスから機能を売るビジネスへと新しいビジネス形態を導入することができました。

その他にも、広栄化学工業が主力としている医薬品中間体の事業拡大にも携わりました。

西田さんは研究所長や執行役員などを務め、研究マネジメントの経験も豊富ですね?

究部門には、開発部門や営業部門から「こういう製品がほしい」「こういう問題を解決してほしい」などさまざまな要望があがってきますが、企業としては「いつまでに」という部分が非常に重要です。そこで、スケジュールを判断し、優先順位をつけ、人員を配置したり原料を手配したりします。4.西田.写真4

収率を数パーセント上げるのは大変ですが、安い原料をうまく使いこなせば会社の利益になるので、購買部門との連携も重要でした。また、例えばこれまでに作ったことのない化合物の製造について打診があった時、合成方法に加え工場での生産費用を概算するのも研究部門の仕事。当時はコスト計算ばかりしていたような記憶があります。

 

【北海道大学に新設された実用化基盤技術開発部で、企業と大学を結ぶ】

広栄化学工業で15年勤務した後、再び北海道大学に移った経緯は?

北海道大学の触媒化学研究センターで、実用化基盤技術開発部を新設するにあたり人員を公募していました。企業の経験と大学の経験を両方持つ人が望ましいというお話で、私自身、企業で実践してきた研究開発手法を大学にも導入できるか試してみたいと思い、2014年に教授として着任しました。

そこで西田さんの担う役割は?

実用化基盤技術開発部というのは、北海道大学が全国の大学に先駆けて設けたもので、大学と企業を結びつけ、基礎的な研究成果や技術シーズを実用化に導くのが私の役割です。

この1年間の主な仕事としては、企業からの問い合わせを受け、求められるテーマに合う先生をご紹介し、共同研究がスタートしたケースが1件あります。もう1つは、JST(科学技術振興機構)のプログラムのお手伝いを通して、研究開発プロジェクトの企画・ 遂行・管理などを担うプログラムマネージャーの仕事について勉強をさせていただきました。

【北海道大学と産総研のクロスアポイントメントを、新たな挑戦の場に】

2015年4月に、北海道大学と産総研でクロスアポイントメントが開始されました。西田さんは、今後どのような取り組みをしていくのですか?

クロスアポイントメント制度は、大学や研究所の持つ触媒科学技術の実用化を図るため、大学(文科省)と産総研(経済産業省)が組織の壁を越えて活動することを目的としています。

具体的な活動は大きく2つあります。1つはイオン液体を技術シーズとした共同研究で、北海道大学の安田友洋准教授が中心となって、クリーンな社会づくりに貢献できる材料の開発と実用化を目指します。

もう1つは、北海道大学と産総研の技術シーズを、企業を通じて社会に還元するためのマッチングです。こちらについては、具体的な取り組みはこれからです。

北海道大学と産総研の双方と雇用契約を結んで活動できる制度に、メリットを感じていますか?

企業のニーズにぴったり合う先生を見つけるのは非常に難しく、私としても今までに作ったネットワークを総動員してマッチングを図っていくつもりです。その時、やはり北海道大学だけで活動するのに比べ、産総研の先生方とつながりを持つことでマッチングの裾野は大きく広がります。それは私にとって非常にありがたいことであり、また思いもよらない結びつきが生まれる可能性もあって非常に楽しみです。

クロスアポイントメントで挑戦したいことは?

今まで経験していない新しい分野で、大学、研究所、企業を結びつけて研究開発を行い、実用化を実現することです。そのためには、私もこれから新しいことを勉強していかなければなりません。企業にいた頃は、技術力や製造設備など制約される面もありましたが、今回はその制約が外れ、今まで考えてもいなかった分野を扱う可能性もあるからです。

異分野の人たちをまとめるうえで大切なことは?

認識を統一し、方向をきちんと示すことではないでしょうか。私は、ゴールを示せば、どういう道順でそこまで行くかは先生方の好みに任せて良いと考えています。時には、そのゴールを修正する必要が出るかもしれません。進む途上で修正をしながら、最終ゴールを決めていくことになるでしょう。

最後に、日本のものづくりについてどのような展望を持っていますか?

日本のものづくりの技術力は非常に高く、求められた純度の製品を期限までに作るというような、当たり前のことを当たり前にできるのが日本の強みと言えます。5.西田.写真5

しかし、それが通用しなくなる時代もきっと来るでしょう。製品には寿命がありますので、産業構造や社会システムの変化に応じて、培った技術を活かして新しいものづくりを展開していかなければなりません。また、経済は必ず好景気と不景気を繰り返しますし、為替の変動により得られる利益が乱高下することもあります。そうした景気や為替に翻弄されるような技術ではなく、もっと確固とした産業力のある技術を生み出すことも必要です。

日本のものづくりは優秀だけれども、変わっていかなければ生き残れない。生き残るためには、新たに事業化できるものを探し出さねばならない。そう考えています。

 

(聞き手・文=太田恵子)