第28回「化学と工業」委員長の招待席 佐藤一彦研究センター長寄稿文
はじめてのBCSJ論文に至る長い道のり
様々な先生方と出会い、本気で関わっていただき、「論文を書く」という作業を通じて、駆け出しの研究者が成長していく四方山話として、気楽にお読みいただければ幸いです。アカデミアを取り巻く状況が、今とはだいぶ違っていた頃の話です。
- 1990年に名古屋大学の野依研究室の助手になり、初めてフルペーパーを書いてBCSJに投稿した。その時の様々な出来事を酒の席で話したところ、「BCSJに論文を出して成長した話」を書くように玉尾先生から打診されて、安請け合いしてしまった。論文掲載までの苦労はBCSJに限らないし、「そうだ!BCSJに投稿しよう」と思われる文章が書けるはずもないし、などと考えながら執筆できずにいた。難しく考えずに、手元にある当時の論文原稿や審査員とのやり取りを基に、恥ずかしい限りだが自分の経験を書いてみる。その前に、BCSJ論文投稿までの道のりを、それまで関わっていただいた先生方とのエピソードを交えて、簡単に振り返りたい。
フラスコに「気合」を入れろ!見よう見まねで、はじめての論文
英語で「論文らしきもの」を最初に書いたのは、千葉大学の今本研究室に学部4年生で配属されて数か月たった時だった(標題は今本先生の叱咤激励)。3年生の時から研究室に出入りしていて、生意気にも先輩方や先生と良く議論していた。「P-キラル二座ホスフィン配位子の合成」のテーマは、先輩がだいぶ道筋をつけてくれたので、数か月の実験の後に「論文を書くように」と今本先生から指示があった。3年生の時から論文を読んではいたが、書いた経験はなかったので、様々な論文から良い表現の文章を借用したり、「英語論文の書き方」の本を参考にしたりして、何とか形にまとめるだけで相当な苦労をした。
- 恐る恐る提出して、「なんだこれは!」と怒られる心配と、どういう風に直してもらえるのだろうかという期待で一週間が過ぎ、「これに実験データを埋めてくれ」と渡された原稿に、私の書いた英文は一つもなかった。わずかに実験項と表の脚注に残っていたが、それだけでも何となく喜ばしい気持ちだった。「実験をして、論文として世間に発表して、初めて仕事と言える」という基本を教えていただいた気がする。その後、研究テーマに関係のない「闇実験」で、今本研で合成されていたP―B結合化合物に2級アミンを作用させると、簡単にホウ素が外れることを見つけ、得意になって東北大学の櫻井研究室に進学した。見つけるのは個人活動だが、研究室の歴史の中で、多くの暗黙知の上にその発見があるということを当時は理解しておらず、思い上がっていた学生だった。
・・・・・・・・・・・ P―B結合化合物に2級アミンを作用させると、簡単にホウ素が外れる。
伝わる文章、日本語は難しい
日本語がちゃんと書けなければ、英語で論文は書けない。櫻井研究室では研究進捗を2か月ごとに、「バイマンスリー・レポート」として提出することになっていた。修士課程の学生は日本語で書いても良いので、すらすらと書いて提出した。
- 櫻井先生から教授室に呼ばれて、「君の日本語は徒然草だなぁ。そこはかとなく書いているだろ!」と言われ、日本人だからと言って伝わる日本語が書けるとは限らないことを、恥ずかしながらその時初めて認識した。「理科系の作文技術」(木下是雄著)やその他の書き方本を読み漁り、櫻井先生の書かれた申請書を読んだり、新聞やテレビのCMを分析したりと、遅ればせながら日本語の勉強も始めた。「4配位と6配位のケイ素化学は研究されているから5配位をやりなさい」と言われて始めた研究が、紆余曲折を経ても順調に進み、博士論文は吉良先生の助けを借りながら、何とか英語で仕上げた。5配位ケイ素化合物ならではの反応を見つけることができ、研究者としてやっていける自信が2割ぐらいはついた頃、野依先生から電話でお誘いを受けて、名古屋大学へ赴任することになった。
BCSJへ投稿、掲載まで
着任に当たっては「引き継ぎの仕事はない。50年後に残る化学の新しい柱を建ててくれ」「櫻井研+野依研の仕事なら君はいらない。掛け算の仕事を」と言われ、「新しい論文は2年間読むな」とアドバイス?も頂いた。研究テーマの安易なプロポーザルを書いて持っていくと、「それが男子一生の仕事か!」と却下され、ホームランを狙っては三振する日々が続いた。今にして思えば、「研究にはテーマの設定が決定的に重要なので、安易に決めてはいけない」ということであろう。「学会は招待されてから行くもの」(招待されるように頑張れ、の意)とも言われ、結果も出せずに5年間論文なし、8年間学会発表なしで、学会から消えた不良助手であった。
- 野依先生はとても我慢強く、腹をくくって本気で育てていただいた。とにかくこの時期、助教授だった北村先生や、歴代の野依研究室の助手だった早川教授や鈴木教授、山田研究室の助手だった木越先生らに精神的にも助けられて、何とか第一報の論文(過酸化水素によるエポキシ化)を出すまでにこぎつけた。当時、グリーンケミストリーの概念は提唱されていたが、何をやればグリーンケミストリーなのか?について明確に示したものはなく、「水系反応(副生成物は水)、有機溶媒不要、ハロゲン化物不在、触媒の回収・再使用可能」というクリーンな条件を提唱した論文となった。そのフルペーパーをBCSJに出すことになり、序を膨らませて、反応機構の議論を加え、実験項を足して第一稿を仕上げた。
水系反応(副生成物は水)、有機溶媒不要、ハロゲン化物不在、触媒の回収・再使用可能なオレフィンのエポキシ化反応
- 夜中に、教授室の机の上に第一稿を置いて帰った。数日後に秘書の中村さんが、「佐藤先生の原稿、書類の山の真ん中ぐらいに埋まってますよ」と教えてくれた。そんなことが何度かあり、「なぜ読んでもらえないのだろうか?」と思いながら全面改訂をして、第三稿ぐらいで初めて、1ページ目に青字で大きく「×」と書かれた原稿が返ってきた。やっと読めるレベルになったと思いつつ、序が悪いのか?と「×」の意味を考えた。そういえば「感謝される論文か尊敬される論文を目指せ」と常々言われていた。尊敬される論文は難しいので、せめて感謝される論文をと考えて、序に酸化反応の歴史、現象や価値の発見、流れを作った研究などを盛り込んで、分野の発展の歴史がわかるように修正した。その後何度も議論して、第九稿までの間に文章の大幅改訂や、参考文献の人名のスペルミスまで指摘され、なんとか投稿できた。
- 投稿からしばらくして教授室に呼ばれ、「今すぐ東京に行って謝ってこい!」と叱られた。審査結果は「修正すれば掲載可」だったが、エポキシ化合物の命名法のほとんどが間違いで、手書きの几帳面な文字で丁寧に正しい命名法の説明があった。自信をもって命名したが、きちんと調べずに過信であった。論文内容も審査員はかなり丁寧に読み込んで、「論文を良くする」という観点から大変有益なアドバイスもいただいた。論文は研究者人生における「作品」「生き様」で、細部に至るまで疎かにしてはいけないことを「はじめてのBCSJ」で学んだ。
審査員手書きのエポキシ化合物の命名法の説明(4ページあるうちの2ページ目抜粋)
おわりに
- 歳を重ね、叱ってくれる人も少なくなった。心は30代のつもりだが、否応なく自分が若手研究者へ影響を与える番になってしまった。「面白さの最大化」「関わって楽しい」を研究センター運営の基本として、多くの若手研究者と共に研究開発を行っている。先人達へ感謝するとともに、自分を育ててくれた「化学」への恩返しが、多少なりともできればと願っている。
A Halide-Free Method for Olefin Epoxidation with 30% Hydrogen Peroxide, Kazuhiko Sato, Masao Aoki, Masami Ogawa, Tadashi Hashimoto, David Panyella, Ryoji Noyori, Bull. Chem. Soc. Jpn., 70, 905-915 (1997).
A Practical Method for Alcohol Oxidation with Aqueous Hydrogen Peroxide under Organic Solvent- and Halide-Free Conditions, Kazuhiko Sato, Masao Aoki, Junko Takagi, Klaus Zimmermann, Ryoji Noyori, Bull. Chem. Soc. Jpn., 72, 2287-2306 (1999).
「化学と工業」Vol.70-6 June2017より転載